何のために生きるのかを考える理由
まずは考え始めた理由から、
小学1年生のIQテストで調子に乗ってからの話。
前提として、
・私は人の気持ちが周りの大人よりも読めているんだ。今まで想像してきた大人の考えや気持ちはきっと全部当たっているんだ。逆に大人は俺ほど人の気持ちが読めないんだ。
・私はIQ100以下の項目が1個もないから頭脳という点ではどんな点においても大体の人よりも優れているんだ。
と思い込んでいる。
まず考えたのが、
そもそも私に何かを教えてきた私より賢くないため、実は間違ったことを言っているのではないかという問題。
この可能性があるなら、
これまで大人に言われて鵜呑みにしてきたことはすべて自分で考え直す必要がある。
「○○してはいけない!」「○○しなさい」、等
私の親はあまり言わないセリフではあったが、先生には言われることが多かった。
「人の嫌がることをしてはいけない」「喧嘩はしてはいけない」「勉強しなさい」「汚いからやめなさい」、、、
いくらでもあげられる。
この理由から考えてみた。
「人の嫌がることをしてはいけない」
なぜだろう、
そもそもこのルールを決めた人は所詮昔の人だろう。
昔の人ってそんなに賢いのだろうか?
きっと賢くない。頭の固いおじさんたちが言い出したんだ。
なんで頭の固いおじさんたちはこんなことを言い出したんだろう。
きっと自分が嫌がることをされたくないからだ。
自分が嫌がることをされたくないから、頭の固いおじさんたちがわりとみんなされたくなかったから勝手に決めたんだ。
やっぱ決めたのは神様じゃなくて人なんだよね、、、
一番嫌がることって何だろう。
殺すことかな?
そもそも人を殺しちゃいけない理由もわかんないじゃん
これも結局嫌がることだからやっちゃいけないってこと?
まず人ってなんのために生きてるの。
何のために生きてるのかわかんないと何をするべきで何をしないべきかわかんないじゃん。
さすがに当時(小学校1、2年生)の流れを覚えているわけではないので、
かなり予想が入っているし、実際はあの年齢ならもう少しテンポは悪かった気がするが、
結局のところいつも決着をつけるのには
「なんのために生きてる」のかという絶対的な軸が必要だ という結論だった。
これにより、なんのために生きているのかを考えるようになる。
「人は何のために生きるのか」
一通りの決着がついたと感じたのは中学2年生だった。
つまり私の考え事は、8年間同じだったということになる。